防人峠&防人まつり

万葉集では望郷や別れを惜しむ道筋として「多摩の横山」が詠われています。古代、国防警備の目的で北九州に配置された防人という兵士たちは東国から陸路で都へ、さらに難波津(現在の大阪府の海岸)から船で瀬戸内海を通り九州へ向かいました。再び生きては戻れない覚悟の彼らが、この「多摩よこやまの道」の尾根で故郷を振り返りながら、峠では家族との別れを惜しみました。

 

当団は、この峠を「防人見返りの峠」と名付け、標柱を設置しています。

防人まつりでは、参加者と共に防人見返りの峠まで歩き、防人と妻の別れのシーンを再現します。



万葉時代“古代東海道” 防人ウォーク

 万葉の時代、防人達が武蔵国府のある府中から、役人に引率されて難波津(大阪港)に向かって歩いたであろうと思われます。その行程と推定される古代東海道を辿るウォークです。 

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「東海道」と「防人」

 古代の「東海道」を通って北九州に向かった 「防人Jが、どの時代にどのルートを通ったのか、

「東海道」とは何か、 「東海道」と「防人」それぞれの発生から終焉までを調べ、年表と共に検証を試みます。 

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万葉時代“古代東海道” 防人(さきもり)ウォーク


 万葉の時代、防人達が武蔵国府のある府中から、役人に引率されて難波津(大阪港)に向かって歩いたであろうと思われます。その行程と推定される古代東海道を辿るウォークです。

 

 北九州へ向かう防人たちは、それぞれ国ごとに国府に集められ防人部領使(さきもり ことりづかい)に引率されて出発しました。武蔵国では、府中から隊列を組んで旅立ち、やがて多摩川を渡り多摩丘陵の小高い丘の峠では二度と戻れないかもしれないことを覚悟して、愛しの妻や家族に手(袖)を振りながら心の中で別れを叫んでいたと思われます。

 

 参加者と共に防人見返りの峠まで歩き、夕暮れ時の峠から見る景色の美しさは、時代を超え、大きな感動を与えてくれます。


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「東海道」と「防人」