歴古団カフェへようこそ
歴史古街道団の交流の場として歴古団カフェ(道つながりブログ)を立ち上げました。
里山の森を訪ねたり、昔の道を歩くと、見えなかった当時の風景・情景や記憶が今によみがえり、なぜかとても元気になります。歴古団カフェは、道つながりでみなさんと交流を図っていきます。
今までの投稿
あきる野と秋川の古代史ロマン。古代から武蔵国八座の筆頭(延喜式内社)である「阿伎留神社」と葛城鴨氏?や畔切氏、出雲の土師氏との深~い関係を探索しました(多摩らいふ倶楽部にて)。五日市憲法もさることながら、生涯を看護婦として献身的に務めた萩原タケさんの偉業を、地元の女学生たちはしっかりと心に置き留めて大きくなっていく。五日市鉄道の社長にもなった内山安兵衛さんも、キリシタンとなって洗礼を受けた秋川を見下ろす台地の上に静かに眠っておられました(昔はこの辺りを耶蘇渕と言ったとか…)。
(投稿:宮田団長)
長津田から町屋駅家まで古代東海道のルート沿いに歩いてみました。 谷へ降りてく大山街道(矢倉沢往還)とは対照的に台地を通るルートが多かったです。 道沿いにお稲荷様が結構ありました。
(投稿:時田心さん)
小野路の徳川家康 御尊櫃御成道を歩く
御尊櫃御成道」(ごそんひつおなりみち) とは、徳川家康没後1年経った江戸時代初期の元和3年(1617)、家康が残したとされる遺言にそって、駿河国久能山(現静岡市)に埋葬されていた家康の遺骸を、日光東照宮へ改葬する為に整備された道です。 元和3年3月15日に久能山を出発した大行列は、3月21日木曽から小野路を通過しました。 1000人とも1300人とも云われた大行列が通った御尊櫃御成道には、主に榎を植えた一里塚が造られましたが、消滅した塚もある中、町田市には木曽、小野路の2カ所に残りました。 それらがあまり知られていないのは残念であり、少しでも広まればと企画し、今回は御成道のミニ学習会を行い、小野路宿、向坂、一里塚を通って図師まで行き、ルートを確認しました。
「木曽免(面)」投稿:齋地さん
今年6月、古街道団でもお世話になった“多摩のかたりべ”井上正吉さんが、101歳の天寿を全うされました。正吉さんの家は、多摩市関戸でも600年の古い歴史を持ち、ご先祖は清和源氏頼季(よりすえ)流の井上九郎光盛だといいます。 かつて、関戸に同じ由緒を持つ別の井上家(他所へ移転)があり、屋敷地を「木曽免」といいましたが、正吉さんの家との関わりは詳らかではありません。 河内源氏の一族である頼季流が、信濃国髙井郡井上郷(現須坂市)を本拠地としたのは、井上郷が馬の牧であったからとも言われています。 『平家物語』には、「井上黒」という名馬の話が載っており、光盛が木曽義仲の家臣として、横田河原合戦で活躍したと記されていますが、木曽義仲が討たれた年、駿河国蒲原駅で頼朝により誅殺されています。 井上氏は、なぜ関戸に土着したのでしょう。大船や坂戸にも木曽免があり、いろいろ想像が膨らみます。 写真は関戸の熊野神社、大谷戸のむさんやしき(武者屋敷)あたり
初めて投稿します。ふみえと申します。 どうぞよろしくお願いいたします。 昨年10月の旧町田街道歩くイベントに初めて参加しましたが、コロナ等色々あって、次の参加の機会を逃しています。 今、家に籠もりがちな中、少しでも楽しみ見つけられればと、インターネット上での交流も挑戦少ししてみようかと思いました。好奇心は旺盛な方だと思います。 古道については、殆ど知識は無いです。ただ、国分寺の古い鎌倉街道を初めて通ったとき、いい雰囲気で、緑が気持ち良く、印象にとても残っています。 昔から奈良が好きでよく行っていました。今、簡単に旅もなかなか出られない状況なので、画像が粗く古い話で恐縮ですが、少し思い出を添えます。 宿泊先から帰り道に,初めて「山の辺の道」を歩くことになりました。地図書いてもらって道を教えてもらっていたときに、「この道をいくと、昔日本に漢字を伝えた和爾(ワニ)一族が住んでいる場所があるから、そこを通り抜けてね、、、」と説明を伺い、 一気にタイムスリップした気分になりました。実際その付近を歩くと古いお宅が集まってシンと静まりかえり、一人ドキドキしながら道を歩いたのが忘れられません。 (投稿:ふみえさん)
宮田太郎 :古道・古街道は気持ちの良いところが多いものですね。使われなくなって草藪の中に埋没したり、地中に半ば埋まったりするとなかなか接する機会が無くなりますが、人の手でメンテナンスすれば、また生き生きと蘇る良い道に戻ることが多くあります。災害時にも役立つ「全国の古道再生」を見直すいいチャンスかも知れません。
初投稿です。 多摩のあゆみ55号の団長の書かれた記事を読んで実地をぶらぶら散歩。まだ地図の赤くポイントしたところしか行けてないですが、、ブラ太郎してます。(投稿:荒木光信さん)
(株)歴史シアター・ジャパン:塩の道「糸魚川街道」の原型にあたる古道は、かつて縄文人がヒスイを現在の多摩ニュータウン地域の丘陵集落まで運んだ「縄文ヒスイロード」でもあった?という視点で、遺跡分布図からラインを抽出中。 藤井 千惠子:歩いて見たい。 (株)歴史シアター・ジャパン:ダイナミックな景観が楽しめる古街道です。千国街道とも言われます。
神奈川県緊急事態宣言前。所用で神戸に行ったついでに、折角とばかり生田神社と多田神社を参拝。神戸の地名は、市街地付近一帯が生田神社の神戸(かんべ)であったことに由来するそうです。 『大同元年(806年)に、朝廷より当神社をお守り・お世話する家として「神戸44戸を賜った」とされます。この「かんべ」の名が訛り「こんべ」、そして「こうべ」となりました。』 生田神社パンフレット(生田神社略記) また源平合戦の古戦場として、謡曲「箙(えびら)の梅」の梶原源太景季や、「生田敦盛」の話が伝わっており、灘の美酒の発祥の宮ともされています。 川西市にある多田神社は、「清和源氏発祥の地」としてどうしても訪ねたかった所でしたので、電車を乗り継ぎ小型スーツケースを引っ張りながら(駅のロッカーに預ければ良かった…)到着。 周辺には坂田金時の墓等の史跡、三ツ矢サイダーは平野の鉱泉から始まり、三ツ矢の名も源満仲が住吉大社の神託に従って放った、三つ矢羽根の伝説からきているそうです。 残念だったのが宝物殿所蔵の源家宝刀、平安時代鬼の酒呑童子を討伐した際使ったと伝わる源頼光「鬼切丸」、二度とないかもしれない抜き身の特別公開中だったにもかかわらず、当日は該当日でなかったこと。 コロナが落ち着いたら、大江山の鬼退治や多田銀銅山史跡を兼ね、ゆっくり訪れたいです。
(投稿:杉山さん)
弁慶の「鍋ころがし」 義経、弁慶がこの地にさしかかり 弁慶が馬と共に急な坂を越す際馬が足を滑らせて、 弁慶が危うく落馬しそうになった。 そのとき、鞍の後ろにつるしてあった鍋の紐が切れ、鍋は断崖に落ち、谷底へ消えっていった。(投稿:時田心さん)
大成建設自然と歴史環境基金2019助成事業(活動報告) 多摩丘陵に奇跡的に残された古街道の全体構図や歴史価値をGIS(地理情報システム)を使ったフィールドワーク https://www.rekkodan.com/n/n04/
「歴史とみどりの環境づくり★生涯学習ファミリー教室」 相原七国峠古道を歩いて自作MAPを作ろう!!」をテーマに、初めてファミリーを対象に企画したものです。
東京・町田の駅前に幾つもの三角地帯の土地を持つ辻がある。左側の道が鎌倉街道山ノ道、後の新たな町の区割りが合わさるからこうなる。(投稿:宮田団長)
鬼岳天文台(長崎県五島市)
(投稿:杉山さん)
箱根「湯坂路」を歩く
(投稿:三好さん)
東名川崎インターチェンジの北側の土橋と言われる地域があり、これは頼朝が土橋を架けた事に由来してるそうです。(投稿:とっ きぃさん)
経ヶ岳(633m)・仏果山(747m)を歩き三増峠周辺の古戦場である丘陵地形(3~400m)をより高い位置から眺めてきました。
(投稿:鶴巻栄光さん)
横浜こども自然公園口にある江戸方面から来た「鎌倉古街道中の道」と「大山道」とに分かれる分岐点の案内標識と大山道
(投稿:加藤正昭さん)
義経伝説の残るよみうりランド前駅前の二枚橋
(投稿:とっ きぃさん)
横浜こども自然公園内(大池公園)の武相国境の道
(投稿:加藤正昭さん)
新田義貞進軍した稲村ヶ崎です。鎌倉攻めルートにたどってみました。
(投稿:小久保次郎さん)
「奥州古道跡」?と思われる痕跡を発見。(投稿:宮田団長)
昨日、宮城県の仙台の少し南、名取町の笠島道祖神社参道脇で「奥州古道跡」?と思われる痕跡を発見。東山道の伝路の一部でもあったかもしれない。並行する側道が神社旧参道を含めて4本も確認できる!かつては相当な交通量だったに違いない。ーーこの古街道が、東京の町田市や多摩市の奥州古道の続きと考えると実に感慨深いのだ。ーーさらに奥州古道が陸奥路と出羽路に分岐する道の又にあたる山林を地元の方々や知人と探索。奥州古道や千塚古墳群を見下ろす高台の「王檀塚古墳」(方墳)や約200基近い未調査の大古墳群が今もヤブの中に眠る。正に聞き慣れてしまった「古墳コーフン」の言葉がぴったりの静かな聖域だ地中に眠っていた。 (宮田太郎)
古代国道を航空写真で発見か?!
(投稿:宮田団長)
宮城県白石市から仙台平野の多賀城方面にかけて続く「古代東山道」の大規模道路痕跡を探るべくグーグルアースで見てみれば、大規模な国道らしき範囲が「連続する畑地の連なり」として見えた(気がする)。日野崎という小山(大河原町)(☆やオレンジ色の◯)を目指して真っすぐ伸び、手前で90度に曲がって柴田の船岡山と上の山古墳群の山の間へと続く(赤い点線)。途中には館跡の様な地形の場所(今は変電所)も(黄色いの点線)。すぐ先に古代の「柴田駅家(しばたのうまや)」があったか…。この道は奥州古街道でもあり、奥州藤原氏や源義家(八幡太郎)、源頼朝の伝説がある。駅家から先は「陸奥路」と「出羽路」に分岐していたに違いない。(宮田太郎)
大宰府で古代官道発見!
(投稿:鶴巻栄光さん)
八王子ウォーキングで訪問しました。霞神社(投稿:Kyoko塚田さん)
宇佐神宮の寄藻川を渡るときに見えるのが勅使が通った呉橋です。
(投稿:Michiko Otaniさん)
明治神宮シンポジュームに参加
(投稿:Kyoko塚田さん)
町田市に遺る歴史的遺産「鎌倉古道」②
(投稿:井上豊明さん)
地中に眠っていた鎌倉街道-国内最大級-の発見! 国内最大級! 12メートル幅の鎌倉街道上道本路跡が出現! 大きく開いたV字型で小穴列のあるこの床面は、設計上の工夫が施され、その上に数層の床土を張り重ね、平らな床面にして通行していた。正に計画的な道路の様相を残す貴重なる遺跡が見つかったのだ。
(平成4年夏 宮田太郎著『鎌倉街道伝説』より) 現在、この場所は土を覆いかぶせたままになっていて、掘り返せば再び姿を見せますが、特別な保護をしないかぎり、 この一級文化財は遠くない日に消滅してしまう怖れがあり、保護が必要な状況です。
写真:東京都町田市野津田町上ノ原での発掘現場の様子
町田市に遺る歴史的遺産「鎌倉古道」① (投稿:井上豊明さん)
古代から鎌倉・戦国~江戸時代の貴重な街道が今も街中や野山に遺されていることが 考古学的調査や歴史地理学的な実地に立った 歴史探求から、次々に明らかになってきています。
特に町田市内の七国山や野津田地区には、源頼朝や鎌倉時代の北条氏の時代に完成させられていった「鎌倉街道の最重要路・上道(かみのみち)」 や支線的な軍道、古代国道(古代東海道や奥州古街道ほか)の道路遺構や推定・古代駅家跡、また中世の馬牧や砦跡・関所跡・古戦場、近世の徳川家康 の道など貴重な歴史古街道群が、その歴史環境ごと遺された貴重なエリアなのです。
これらが往時のまま地中や地表に良好な遺存状態で、集中して見られることは、 正に奇跡的なことであり、他地域には見られない 特筆すべき事実です。 鎌倉古道・歴史遺産の会は、町田市にのこる「鎌倉古道」の素晴らしさをシリーズで紹介していきます。
(写真:関屋の切通し、中世の関所跡ではなかったかと考えられています。一帯では中世の板碑が多く発見されています。)
高尾歩きと桑都あるき
(投稿:伊藤ミチ子さん)
高尾歩きと桑都あるき 八王子の秋の風物詩のいちょう祭りが、コロナ感染症、感染拡大防止のため関所オリエンテーリング、模擬店など例年通りのイベントはありませんがモバイルスタンプラリーという新しい試みになりました。八王子追分町から小仏関所までの道を色づいたいちょうを愛でながら歩くのはいかがでしょうか?
高尾歩きは2015年まさに色づいた銀杏の11月から2017年11月まで計6回行いました。JR高尾駅周辺から京王線山田駅近くの廣園寺の開山忌(⒋/5)は一見の価値がありますよ。 めじろ台駅の南側の湯殿川は山形県の湯殿山と関連があることにびっくり。京王線の旧御陵線の廃線跡を辿って北にむかうと長房団地から多摩御陵まで歩けます。ブラタモリでも紹介されました。
6回目は最終回ということで高尾山薬王院の精進料理を頂いてお開きにしました。 もうみなさんをご案内することはないかなと思っていましたが八王子市内を案内して欲しいと言うことではじめたのが「桑都あるき」です。八王子は桑の都と呼ばれていたので、桑都あるきとしてはじめました。
今年、八王子市が日本遺産に「人々の祈りが紡ぐ桑都物語」として登録されました。桑都を使い始めたのは先見の明があったのかな? 2018年の春から今年の10月まで6回ガイドしてきました。「桑都あるき」では明治時代から絹織物業から発展したのと同時に、自由民権運動が五日市から町田まで盛んだった頃の八王子にも数多くの史蹟が残されています。そんな史蹟を毎回入れ込んだコースを考えてきました。
次回はどこをご案内するかお楽しみに!
今年私の知り合いが自分のお母さんへの想いを一冊の本にまとめました。大正から平成までの八王子の様子がよくわかります。その中に八王子空襲と中央線列車襲撃事件のことが書かれています。今年高尾山蛇瀧入り口の近くの「いのはなトンネル」の慰霊祭に参加しました。 (歴古団カフェ 伊藤ミチ子)
金太郎の山里から足柄古道を歩く
その1 (投稿:三好さん)
当初は、新松田駅からバスで地蔵堂まで行き、夕日の滝を見てから足柄古道を歩いて関本(大雄山駅)まで戻る予定でした。 ところが、地蔵堂バス停までのバスの出発時間が変更になっていたので、関本(大雄山駅)まで路線バスで行き、逆に歩くことにしました。 (三好)
【コース】(午前) 小田急線「新松田駅」9:15集合→(路線バス)→関本(大雄山駅)~関本宿~高札場跡~お君塚入口~足柄道坂本駅駅舎跡(南足柄市総合グランド)~白地蔵尊(顔面に「うどん粉」)~足柄古道入口~足柄神社~足柄神社石祠群~東山石碑群(芭蕉句碑)→矢倉沢公民館(昼食11:40~12:00)
写真は、関本(大雄山駅)金太郎、足柄古道入口、矢倉岳 標高870m、矢倉沢公民館横の看板
金太郎の山里から足柄古道を歩く
その2 (投稿:三好さん)
昼食後、矢倉沢裏関所を見て、本村バス停から路線バスで地蔵堂へ。 地蔵堂からは当初の予定通り夕日の滝から足柄古道、関所跡を通り、昼食をとった矢倉沢公民館に戻り、路線バスで関本、新松田駅へ。 足柄峠越えも近々に予定しています。 (三好)
【コース】(午後) 矢倉沢公民館(昼食後12:00)~矢倉沢裏関所跡(石村家)~本村バス停~(路線バス)~地蔵堂バス停~足柄地蔵尊~金太郎の遊び石~金太郎の生家跡地~八重桐の石~金太郎の力水~夕日の滝~長者橋~足柄古道~頼朝ひじ松跡~矢倉沢定山城跡(大森氏)~家康陣場跡~関所通り~矢倉沢関所跡(末光家)~矢倉沢公民館(休憩)~江月院(和泉式部が一泊)~東山バス停~(路線バス)~関本(大雄山駅)バス停~(路線バス)~新松田駅バス停~新松田駅(16:18)
写真は、足柄地蔵尊(鎌倉時代作 木造地蔵菩薩立像)、夕日の滝、矢倉沢定山城跡(大森氏)、矢倉沢関所跡(末光家)
月見野遺跡群(投稿:三好さん)
月見野遺跡群は、大和市つきみ野の目黒川両岸の旧石器時代の遺跡です。上野(かみの)遺跡第1・2地点では、約2万3千~1万2千年前の遺跡が発掘されています。2万年前のつきみ野は、今の北海道と同じくらいの気候でした。
上野(かみの)遺跡第3地点は、30数年前に宅地造成工事を施工する前に遺跡調査をしました。
調査するのは大和市教育委員会、作業員は業者さんにお願いしてこちらで手配しました。
調査最初の日に、立ち合いに行きました。 覚えているのは、調査員の方が移植ゴテを持ち、 「赤土を少しずつ削ってください、カチッと音がしたらそれは石器です。」と、作業員に説明していました。
「ええぇ~、そんなことをして調査するの? いつ終わるの?」という感じでした。
当時は、歴史には全く興味もなく、早く調査を終わらせてと思っていました。約1ケ月で調査が終り、たくさんの出土遺物が確認されたみたいです。その後に切土や石積み工事が始まり、無事に宅地造成工事が完成し、個人住宅が建築されました。
何年か前に現地に行ったら、少し下の目黒川近くの公園に看板「月見野遺跡群上野遺跡第3地点」が設置されていました。 歴古団カフェに載せようとネットで調べていたら、大和市のHPに調査の報告書が載っていました。 電話して確認すると在庫があり1200円で購入できるとのことで、すぐ文化振興課市史・文化財係に行って買ってきました。 かなり専門的な報告書でしたが、意外と安かったので良かったです。報告書に出土遺物952点が確認されたとありました。 今では、歴史が好きになり、遺跡の調査をやりたい気分です。
皆さまも東急田園都市線「つきみ野駅」周辺を散策されて、旧石器時代の遺跡を楽しんでください。つる舞の里歴史資料館も近くにあります。(三好) 写真
秀衡街道 その1(投稿:三好さん)
秀衡街道は、陸奥国・平泉と出羽国・横手を結んでいた道で、奥州藤原氏の三代目・秀衡の時代に金の輸送に使われていました。黄金の道」とも称され、鷲之巣金山などの金山跡が残されいます。
秀衡街道は歩いてはいませんが、2015年5月に後三年の役の金沢柵、11月に平泉中尊寺・金色堂に行きました。 両方とも上り坂がきつかったです。 後三年の役 (後三年合戦(ごさんねんかっせん)とも):平安末期の1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)に起こった、奥州の支配者・清原氏の内紛に、陸奥守(むつのかみ)である源義家が介入して起きた戦いです。この戦いの結果、清原氏は消滅して、奥州藤原氏へと繋がっていくこととなりました。
写真は、秀衡街道案内図、金沢城跡看板、中尊寺金色堂(国宝の金色堂は覆堂内にある)です。 (三好)
秀衡街道 その2(投稿:三好さん)
岩手県北上市から西和賀町を経由して秋田県横手市まで通じる街道で、東西を結ぶ重要な行路であったと伝えられています。
秀衡街道が通っていた岩手の西和賀町は、私が生まれ育ったところで、昔は和賀郡湯田村でした。(湯田村→湯田町→沢内村と合併して西和賀町)生れたのは銅を採掘していた土畑鉱山の社宅で、鷲之巣鉱山も同じ会社の鉱山でした。通学していた小学校の少し先に秀衡街道「湯川口」があります。(当時はなかった)数年前に小学校のクラス会で行った時に初めて知りました。
同級生が湯川温泉で旅館をやっているので聞いたところ約20年位前に整備され木柱は、平成25年に建てられたとのことでした。「湯川口」には平成24年4月に中尊寺から株分けされた「ハス池公園」があります。 小学校は、昭和45年の地震で理科室の薬品が落下して発火、火事になり全焼し、廃校に。中学校は、湯田ダム建設(今の錦秋湖)で水没するので中学一年の時に、新築の校舎に移転しました。
今は、生徒が少なくなり合併して名前が変わりました。 鉱山は、昭和51年に廃鉱になり坑内排水から沈殿銅を採集する作業のみが行われているみたいです。 なんかすべてなくなってしまった感がありますが、思い出いっぱいです。(中学2年まで)
写真は、湯川口の案内図(金沢柵の看板より)、湯川温泉 中尊寺ハス池公園、「湯川口」木柱 です。 (三好)
「一本杉の天狗様」
(投稿:狩野さん)
昔、天を突くほどの杉の老木が立っていました。 いつの頃からか、太い枝に天狗様が棲みついていました。 この天狗様、困ったことに下を通る者にいたずらをしたり、難問をだしては困らせたりと、傲慢な振る舞いをしました。 人々は恐れて、下を通る人がいなくなってしまいました。 ある時、この下を老僧が通りかかりました。天狗様は早速問答をふっかけました。しかし、お坊様は難なく解いてしまいます。今度はお坊さんが問題を出す番です。しかも、「天狗様の通力」を掛けた3つの難問です。 天狗様は、最後の答えがどうしても解けませんでした。 そして、神通力を失った天狗様は下に落ちてしまいました。 このお坊様、弘法大師さまであったとか、なかったとか。 今では分かりません。杉の老木も刈られましたが、 なんと谷一つ越え、向かいの山まで届いたという・・・。
多摩ニュータウンは昔は雑木林の広がる多摩丘陵だったが、この一本杉公園の位置する多摩市南野あたりはその尾根にあたり、南に隣接する町田市小野路町には今でも自然がよく残っています。 公園の案内板によれば、「南野」は町田市の小野路町と下小山田町の一部が昭和48年に町田市から編入されたもので、多摩市の南部に位置することと、小野路の「野」からの命名であるという。 小野路という名はかつて武蔵国府のあった小野郷へ至る道が通っていたことに由来するのだそうだが、 その道は小野郷と鎌倉とを繋ぐ、いわゆる鎌倉道で、現在の南野のあたりを抜けていたらしい。 この鎌倉街道の古道はすっかり歴史の中に埋もれてしまった観もあるが、小野路やこの一本杉公園の雑木林の中に 今でもその名残を見つけることができるのだという。 鎌倉道がその役割を十分に果たしていた頃、小野路は宿場として大いに賑わったのらしいが、 現在の南野の辺りは当時の村境に近く、街道沿いに大きな一本杉があったのだそうだ。 それがこの公園の名の由来にもなっているが、現在はその一本杉は無い。 狐に化かされた人の話や悪戯や難問を出して人を困らせる天狗の話など、一本杉にまつわるさまざまな言い伝えや物語もあるらしい。 (狩野)
杉山神社(投稿:三好さん)
4月5月の新型コロナウイルスでのステイホームの自粛生活運動不足対策として、昼食後にグーグルの地図で検索した近所の寺社、稲荷社等に徒歩や車で行きました。
一番多く行ったのが、杉山神社でした。 杉山神社は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社で鶴見川水系沿いを中心に数十社存在する。(椙山も含む)
今回行ったのは
○神奈川県横浜市:
・杉山神社 (青葉区千草台)
・杉山神社 (青葉区市ケ尾町)
・杉山神社 (青葉区みたけ台)
・上恩田杉山神社 (青葉区あかね台一丁目)
○東京都:
・椙山神社 (町田市三輪町)
・杉山神社 (町田市成瀬)
・杉山神社 (町田市金森)
・西田杉山神社 (町田市金森)
・杉山神社 (町田市つくし野)(毎年初詣で行きます)
まったく知らなかった杉山神社もあり、勉強になりました。
写真は、石柱で神社名がわかるのみです。上恩田杉山神社、三輪の椙山神社、西田杉山神社 (三好)
帰還への道(はやぶさ2)
(投稿:杉山さん)
2020年末の地球への帰還に向け、5月12日「はやぶさ2」が最後のメインエンジンを噴射しました。
話は宙から相模原市に移りますが、淵野辺駅近くに「呼ばわり山」といわれる新田(しんでん)稲荷神社があります。 かつて迷子や行方不明者を探す時、鐘や太鼓を叩き「迷子の迷子の誰それやーい」と叫ぶと、見つけることができると信じられてきた小さな丘に建っています。
「はやぶさ」が消息を絶った際には、はやぶさプロジェクトマネージャー川口教授が発見を願って毎夜参拝されたそうです。 その御利益もあってか無事の帰還を果たした「はやぶさ」、深夜一人感動しながらライブ動画で帰還を観ていた日が懐かしいです。
神社前の通りには「八王子道」の石碑もあります。(SUGIYAMA)
龍谷山東雲寺(曹洞宗)
誕生釈迦仏立像(投稿:三好さん)
町田市成瀬の東雲寺境内の釈迦堂の仏さまは、七世紀後半、白鳳時代に作られたという「誕生仏」です。 関東以北では最も古い仏像です。 (高さ9.8センチの鋳銅製)
お釈迦さまは、生まれてすぐに七歩あゆまれ、天と大地とを指さして「天上天下唯我独尊」とおっしゃられたと伝えられています。 これは、この広い世界の中で、「私」はただ一人の存在であり、この命はかけがえなく尊いという、 仏教の大切な教えのひとつです。このときのお姿を仏像にしたのが「誕生仏」です。 誕生仏は、一般的に右手を上に、左手を下にしていますが、この白鳳誕生仏は、左手で天をさしており、日本では5体ほど確認されているめずらしい仏像です。 火災にあったために両足首以下が失われ、手首や肘に損傷があります。(三好)
古街道の集まる木もれびの森(相模原・古淵)を歩く
(投稿:井上豊明さん)
散歩コースの木もれびの森は緑に覆われた林になっていますが、実は古街道が集まる貴重な場所なのです。
家康の御尊櫃御成道、矢倉沢古往還(大山道、行者道)、古代東海道(防人の道)や謎の宙水周回古道など古街道がこのエリアを通過しています。 大野台中学校前の行者道(御成道)から木もれびの森に入ってオルガノ開発センターを迂回して、徳樹庵の横をぬけていきます。林内に残る大型の古街道痕跡は圧巻です。皆さんも歩かれてはいかがですか?
雑木林の散策の好きな人も是非とも訪れてみたい魅力的な林と思います。ただ残念ながら駐車場などは用意されていないので横浜線の古淵駅から相模緑道緑地を辿って歩いて訪れるのが良いと思います。(井上)
山之根稲荷社の天狗道祖神
(投稿:中村さん)
町田市と横浜市の境界にある成瀬尾根道を散歩中何年かぶりに山之根稲荷社の天狗道祖神に立ち寄りました。 以前は成瀬街道から上がって来る道から見えていたのですが、造成され家が何軒も建っていて入り口が分からず迷ってしまいました。南傾斜の陽当たりのよい場所だったのですが、今は住宅の裏に隠れてしまっています。 天文2年(1737)造立され、もとは奈良谷戸川と三ツ又川の合流する山村橋(現都営団地の北)にあったものが昭和40年代の区画整理のためこの地に移されました。 顔が少し欠けていて天狗か烏天狗かはっきりしないので烏天狗と云う人がいます。 銘に「奉建立登神」とありますが「登」は「祭」の誤りだという説もあります。 「祭神」なら「サイノカミ」と「塞神」通じ 「登神」は童の昇天を祈願して「神に登る」となるそうです。(中村)